走れメロス

おまえには、わしの孤独がわからぬ――

羊飼いメロスは、妹の婚礼準備にシラクスを訪れる。
しかし都市に活気はなく、不審に思い市民に何事か問う。
市民の老人は、都市を支配する王ディオニスが人間不信に陥り、処刑を繰り返しているとメロスに教える。

メロスは激怒し、暴君の殺害を決意する。
だが王城に侵入したところを衛兵に捕らえられ、処刑される事になる。

概要

作者:太宰治(1909~1948)

初出:1940年
文芸雑誌『新潮』5月号

収録:『女の決闘』河出書房
(著作権消滅により青空文庫にて公開)

原作

破滅型作家の代名詞、太宰治の精神的に安定していた頃の作品。
井伏鱒二の紹介で結婚、短編『女生徒』が文芸時評で絶賛され原稿依頼が急増。
太宰史上、最も穏やかな時期だった。

本作は、古代ギリシャの伝承と、ドイツのフリードリヒ・フォン・シラーの詩をもとに創作された話である(詳細は、後述の補足で)。

また、太宰の友人・檀一雄によると、熱海で宿代が払えず、檀を宿代のかたに太宰が金の無心に奔走した経験も創作の発端だという。
尚、太宰は戻らず井伏と将棋を指していた。

補足

「走れメロス」には原形となる伝承、時代を経て様々な変遷がある。
比較文化学者・杉田英明曰く、太宰がいう「古伝説」とは、古代ギリシャのピタゴラス派(後述)の教団員の団結の固さを示す逸話と指摘している。

もとの伝承

杉田英明が伝承初期の一つとして挙げる『ピタゴラス伝』(哲学者イアンブリコス著)の中に、ディオニュシオス2世が治めるシチリア島のシュラクサイを舞台にした話がある。
この話は、のちにコリントスに追放されたディオニュシオス2世が、体験談としてアリストクセノス(哲学者)に語ったものとされている。

メロスとセリヌンティウスにあたる人物は、ピタゴラス派の教団員ダモン(デイモン)とフィンティアス(ピシアス)になる。
尚、王は「わしも第三の男として友情に加えてほしい」と頼むが、拒否される。
また、フィンティアスやダモンの深い心理描写はなく、最後にフィンティアスが許されたかどうか明らかにされていない。

伝承の変遷

一方、『世界史』(歴史家ディオドロス・スィケロス著)にある伝承(『ピタゴラス伝』と独立して成立)は、物語性が強い。
例えば、フィンティアスが刻限ギリギリに登場するなど『走れメロス』に近い。
「わしも第三の男として友情に加えてほしい」というセリフは、『ピタゴラス伝』と共通、以後シラー、太宰まで伝承されている。

後の『著名言行録』(ウァレリウス・マクスィムス著・1世紀)で文学的装飾が施される。
そして『説話集』(ヒュギヌス著・2世紀)では、フィンティアスがモイロス(ドイツ語圏でメーロス)、ダモンをセリヌンティオスに名前を変更、ピタゴラス派の団員という設定を消去。
また、3日間の猶予、妹の婚礼、暴風雨による川の氾濫を追加し、処刑方法を具体的に磔刑にした。
この『説話集』を参考に、シラーが詩を創作した。

伝承はギリシャ・ローマで広がり、設定や人物を変えながら中東アラブ世界に広まる。
『歌謡集』(イスファハーニー著)に中東アラブ世界における初期の形が見られ、『千夜一夜物語』でも「ウマル・アル=アッターブと若い牧人との話」(第395~97話)として残されている。

やがて伝承は、ヨーロッパに流入し復活する。
杉田曰く、ヨーロッパでの復活は14世紀以降と思われ、前述した『著名言行録』がキリスト教の僧侶が説教を行う際の手引きとして活用されたことが大きいと述べている。

そして1799年、シラーの「人質」という詩で発表された。
シラーの詩は、独文学者の小栗孝則が1937年に翻訳した『新編シラー詩抄』(改造文庫)の中で発表される。
太宰はこの翻訳を参考にしている。

太宰以外の和製メロス

太宰治以前の明治初期、幕末を舞台に伝承を翻案した作品がある。
この作品は青少年の道徳心を育てることを目的に学校教育に採用、広く読まれた。
太宰が使っていた高等小学校1年生の国語の教科書にも「真の知己」のタイトルで収録されている。

また、児童文学者の鈴木三重吉が「デイモンとピシアス」のタイトルで1920年に『赤い鳥』に発表している作品も存在する。

ピタゴラス派

古代ギリシャ、哲学者・ピタゴラスが創設した宗教結社。ピタゴラス教団ともいう。
数学・音楽・哲学の研究を重んじ、古代ギリシャのオルペウス教の影響から輪廻転生の考え方を有す。

教団は非常に盛況だったが、かつて教団加入を希望しテスト不合格で門前払いになった人物が遺恨から市民を扇動、教団は暴徒と化した市民に焼き打ちされて壊滅し、ピタゴラスも殺害された。

教団の特徴的は、原始共産制を敷き財産を共有することを結社に入る第一条件としていたことにある。
そのため、構成員たちは共有財産のもと共同生活を行い、強い友愛の絆で結ばれていた。

『走れメロス』のもとになった伝承は、ピタゴラス派の教団員の結束を意味する美談として語られていた。

余談だが、ピタゴラスは豆を嫌っていたため、教団員にも豆食を禁止していた。
嫌う理由は分からないが、前述の教団崩壊の時も、彼は豆畑を通って逃げるより「追っ手に捕まって殺されることを選ぶほど嫌っていた」という逸話が寺田寅彦の作品にある。

スケキヨ版

ミュージカル風のエンタメを目指し、多くの点で加筆と省略がされている。
  1. 主人公を暴君ディオニスに変更、視点をシラクス側で固定
  2. メロスの動向に関して全カット
  3. 3日目の悪天候について省略(川の氾濫という表現でとどめる)
  4. メロスを襲う山賊を、明確に王の差し金とする
  5. 処刑を免れた以降の話(殴りと抱擁、王の改心、メロスの裸)をカット

ディオニス視点の理由

暴君の心理描写を描き、彼の心情変化を分かりやすくしようとした試み。
メロスの行動が異常で目立つため、主人公を変えた。

原作のようにメロス主役に添えて彼の苛烈さを描く場合、山賊はただの賊とした方が作品として締まる。
今回の動画は、王の猜疑心を強調したかったため、山賊は王の配下とした。
つまり、王とメロス達の勝敗を分けたのは「自分自身を信じられたかどうか」として描いた。

セリヌンティウスの気持ち

原作での王とのやり取りは「メロスは来ます」のみだが、そのまま忠実にすると人質の心情と王の心変わりが分かりにくい為、オリジナルで口喧嘩を入れた。
あのメロスの友人なのだから、彼も図太い神経をしていると考えている。

また、王が後ろめたい感情がない「完璧な信頼」を求めるのに対し、セリヌンティウスは「そんなものはない」と冷ややかで、信頼を貫きたい感情と裏切りたい感情のどちらも真実だとし、負の感情があるから直ちに「偽物の感情」とせず、どう折り合いをつけるか、そこに目を向けていたところをセリヌンティウスの強さとした。

配役

見た目からして威厳のある【えいき】を据えて、あとは適当に配役。
メロスとセリヌンティウスは、旧東方を意識している。

考察

裸のメロス

太宰の原作は、裸のメロスに少女がマントを差し入れてメロスが赤面して終わる。
これは伝承にはなく太宰のオリジナルだが、ここに込められた意味は色々と考察・解釈がされている。

多くの人が語る説は、太宰の「正義に対する気恥ずかしさ」である。
メロスの行為は、言っていまえば自己中心的で独りよがりの正義。

結果的に間に合うことに成功し、感動と祝福を巻き起こすことになるのだが、正義に酔うメロスに対し、少女のマントは「目を覚ませ」「見せびらかすな隠せ」という第三者的な思いがあると思われる。

異色な太宰作品

太宰治といえば「斜陽」「人間失格」の退廃、「葉桜と魔笛」「女生徒」にある少女の心理描写の上手さが特徴的で、この「走れメロス」は異色の部類になる。
道徳的で、多感な年ごろに読めば説教臭く感じる。

しかし、太宰治が「走れメロス」で描きたかったのは、ただの綺麗事ではないと思う。
美談にしたければ、映画版のように誰もに受け入れられるような主人公像にしないとコスパが悪い。

メロスは短絡的で自分勝手な人間である。
ただ、素直でまっすぐな彼の性格は友人や近しい人間からみれば、信頼がおきやすかったのであろう。
ラストの裸といい、独善的な正義に対して皮肉り茶化しながら、信頼に応えるとは何か描こうとしたかもしれない。

そう考えると、メロスが何回裏切ろうとしたとか呑気していたという事は、太宰にとって問題でなかったと思われる。

最後に

今回は初めてのコラボ企画ということで、他のゆっくり劇場投稿者さんと同じ題材で動画を作成・投稿した。
当然だが、作風が変わり面白くとても刺激された。

雪景ゾリアさん(馬の人)の「走れメロス」は、メロスの視点から正義を茶化し倒すコメディーとして翻案されている。
こちらのセリヌンティウスは色々とアレな悦びを求めているが、図太いという意味で共通している。

また、コラボ企画ではないが、同じく投稿者仲間のモカ豆さんが「走れメロス」の作品を投稿されている。
こちらは現実的で何とも苦い翻案になっていて面白い。

今回のコラボ企画で実験的・挑戦的な動画作成をすることができ、非常に良い経験を得た。
このような機会を頂けたことに、改めてお礼申し上げたい。

Comments

ニコ動ななし said…
後記も面白いですね。
あんな解釈があったなんて…、と素敵な動画に感謝です。
今後も楽しみにしています!
いちよう said…
セリヌンティウスの強さに憧れます。
保険を掛けるというか、ハードルを下げて期待せずに待った方が、損得で言えば合理的なのでしょうが
『それでは友と面と向かって向き合えない』と突っぱねる強さに純粋に憧れます。
『友情』の深さに触れられた、思い出深い作品です。
メロスは友達や家族で話し合うとき、必ず馬鹿にするというか、あれこれ言ってしまうのですが
見返してみると不思議な存在です。
作者としては人間臭く、愛嬌のあるキャラクターとして描きたかったのかな?とは感じられますが
よく読んでも、なぜかあまり愛着を感じられません。わざとらしいというか、帰って人間味がなくなっているような。
でも、恋人には無いだろうなあと思いつつも、セリヌンティウスが友達として付き合っているのが妙に納得してしまう不思議。

おもしろかったです。ありがとうございました。